子どもも10歳になりだいぶ手が離れ、一緒に過ごせるのもあと10年ないのかと思うと、その後の生活が寂しいものに感じる。
今は、学校や習い事の送迎、週末も子どもの予定を中心にスケジュールを立てるし、毎日の献立も基本的には子どもが喜ぶものを作っている。
そんな子ども中心の生活に慣れてきて、ふと彼が巣立った後を想像したら、どんな生活が自分にとって楽しいと感じるのかが一瞬わからなかった。
存在していたけれど、認めたくなかったこと
最近、「めんどくさい」を動機にした自分の省エネ思考に気づいてしまった。
ご飯作るのめんどくさい⇨ホットクック導入すればいいのでは?⇨でも洗うの面倒だな⇨誰かやってくれないかな?
掃除めんどくさい⇨ルンバにお任せ⇨椅子あげるのめんどくさい⇨誰かやってくれないかな?
朝の散歩めんどくさい⇨今日ぐらいいいか…の積み重ねで足腰弱る笑
仕事に関しては、理性が働くのでめんどくさくてもやってきたけれど、実生活となると結構ひどい…。
「めんどくさい」を動機にすることが危険なのは、最終的に他人任せになってしまうこと。
家事だったら家族で協力できることもあるけれど、健康については自分で責任を持つしかない。
「やらない」という選択もできるけれど、その結末は恐ろしいものであることをアリアリとイメージできてしまったのだ。
省エネ思考は、今までも隣にいたけれど、認めたくなくてねじ伏せていた自分のクセ。
10年ぶりに再開したヨガを実践する中で、この思考グセが体の動きを鈍くしていることに気づいてしまった。
省エネ思考を手放すときがきた
認めざるを得なくなったのは「観察」したから。
ただ、はっきりと見えたものは、手放したいクセばかりではなかった。
日々、体や心の移ろいを眺めていると、よく頑張ってきたなと今の自分に対して感謝の気持ちで溢れる時もある。
今でも夜中に目が覚めるのは、授乳中からの習慣になっているものだし、腰が痛くなるのは、こん詰めて時間内で仕事をやり切ろうとする姿勢から。
首が前に出やすいのは、子どもやクライアントさんの話をもっと聴きたいからだし、思考する時には肩に力が入りやすい。
そんな自分は全然ダメな自分じゃない。
これまでの自分、今の自分、未来の自分。どんな選択もありだし、積み重ねてきた選択があるからこそ今を生きていられる。そこに1mmも後悔はない。
「めんどくさい」と感じるほど頑張っていたし疲れていたのだ。
漕ぎ出しの苦しさと、わずかな光
「めんどくさい」を動機にした恐ろしい結末を自覚してから、自家発電できる自分を練習している。
同じことを続けていたら変わらないから、やるしかないのだけれど、こぎ出しのエネルギーの大量放出に息切れしそうになる。
ゼエゼエ言いながらも見逃しちゃいけないのが、わずかな光。
必ず変化の兆しが現れるのだ。
「めんどくさい」と戦うのがめんどくさいと感じた私は、めんどくさくならない体づくりに取り組んでいる。つまり、動きやすい体。
2時間以上座り続けて仕事をした後に、家事をするのはめんどくさい。ならば、その状況を作らないように、立ったまま仕事をすることにした。
また、毎朝ヨガをするのは、チャレンジングなフローはめんどくさいが発動しやすいので、ゆるやかなフロー限定に。
すると、めんどくさいと戦わずして自然な流れで日常の動きが変わっていった。
1日ごとに、自分にしかわからないわずかな体の変化を感じ、その変化を味わいたくて次の日もまた実践している。
わずかな光を掴むことができたら、苦しいはずのこぎ出しの車輪がいつの間にかスイスイ回り出していることに気づく。
10年先も自家発電できる自分でいたい
長野に移住してきて、生活環境は正直めんどくささに溢れている。
ゴミ出し、地区の行事、庭の雑草はすぐ伸びるし、Uber eatsが使えない…。効率化していたものが一気に利用できなくなった。
一方で、わざわざやらなければならないことが、生きる力を養ってくれているように感じる。
野菜を使ったお料理のレパートリーが増えたし(まだまだですが)、植物の名前や特徴も覚えてきたし、ゴミをなるべく出さないように工夫もできている。
少しずつ、自分にも家族にも社会にも歩み寄った生活ができている気がする。
忙しい日々の中で、効率化は大事だと思うけれど、「めんどくさい」を動機にした効率化はちょっと危険。人間だからできる「考えること」を疎かにしてしまう。
今までの私はたぶん、省エネ思考を認めたくなくて「効率化が美徳」と言い聞かせてきた。
でも単純に、「自分でできる」が増えていくと充実感を感じるし、やってもらうよりも、やっている方が得るものが大きいのだ。
同じ結果(自分ではやらない)を選ぶにせよ、「めんどくさい」「できない」からやらないのではなく、あえて「お願いしたい」を選択していきたい。
10年先も、私が自分を好きでいるために、自家発電できる自分でいることは大事なことだと身にしみた。