“正しさ”のトリック

子どもが小学校に入学してすぐの頃、突然「図工が嫌だ」と言うようになった。

牛乳パックを使って大きなトロフィーを作ったり、大胆な絵を描いて周りを楽しませていた保育園時代を過ごしてきたので驚いた。

話を聞くと「どうやって描いたらいいかわからない…」と言う。

「自由に描いていいんだよ?」と伝えると「それじゃあダメなの」と頑ななのだ。

学校という社会の中で暗黙の正解を感じとって、自由に表現できなくなっているように私には見えていた。

自分を振り返ってみると、大人になる過程で「求められるもの」に応えていくうちに、自分が何を感じていて、何を考えていて、どう表現したいのかわからなくなっていた時があった。

「こうしたい」と「こうするべき」の間にいて、手が止まってしまったんだろうな…と思うと、切ない気持ちになる。

これは、大人になってからも葛藤することなんじゃないかなと思う。

社会が求めているのは、社会が提示する「正しさ」に沿って生きる人。

そうやって教育されてきているから、真面目にコツコツ取り組んできた人ほど、この罠にかかりやすいのかもしれない。

英語には、主観的な正しさrightと客観的な正しさcorrectの明確な単語が存在するけれど、日本語では「正しさ」の捉え方が曖昧になっているのも興味深い。

より良い方向に進みたいから学ぶし、情報も収集する。

けれども、自分の「こうしたい」とのすり合わせができない限りは、「こうすべき」ばかりが育っていってしまう。

そうなると、ものすごくつらくなる…

「こうすべき」が一人歩きして、さらに情報を求め「正しい知識」の探求に終わりが来ないのだ。

コトバ磨きトレーニングは、自分とすり合わせをしながらプロセスをインストールすると変化が早い。

自分だったらどう使うか?

自分流にカスタマイズができると、サポートが終わっても自走できると考えている。

私が、どんな知識・技術・経験も、使えないと意味ないな、と考えるようになったのは大学時代のある教授との出会いからだ。

社会学部だった私は、文化人類学の授業が好きだった。

世界を見てきた教授が、彼の視点を通して投げかけてくる答えのない問いの渦に入っていくのがおもしろくて、気づいたら毎回90分があっという間に経っていた。

しかし…授業の内容を理解できていたかは別問題。

正直、日常とかけ離れた政治や戦争の話題にはなかなか頭がついていかずにいた。

それに、教授は厳しくて有名な人。授業を聞くのは好きだけれど、論文には苦戦していたのだ。

「あなたが観察したプロパガンダを論じてください」というような課題が出た時のこと。※プロパガンダとは、特定の主義・思想についての(政治的な)宣伝のこと 

いつも通り、何を書いたらいいのかわからず苦戦していた。

迷った挙句、難しいことを書くのは諦め「身近で起こるプロパガンダは?」という疑問を自分に投げかけ、一か八か家庭内で観察したプロパガンダについて書いてみることにした。

確か、当時あれていた弟は、地域のプロパガンダによるものではないか?というような内容だったような…

私が想定していた「論文の正しさ」を度外視した完全に主観的なプロパガンダを論じたものだった。

論文が返却された日。

政治や世界情勢に高いアンテナを持っている友人たちは、私から見たら高度な論文を書いていたけれど、評価はイマイチだった。

私の評価もイマイチなんだろうな‥と思いながら採点された論文を受け取ると‥

そこには大きな花丸が。そしてA+の評価がついてきた。

その評価を見たときに、自分に落とし込んで考えなさい・使いなさいと教えてくれたんだと解釈した。

結局、自分にとっての正しさは、押しつけられるものでもなく、自分の目で観察して判断していかないとわからない。

私が新しい学びを選択する基準もこれ。

誰かにとってベストだったものが、自分にとってベストとは限らない。

自分を活かすために使える内容なのか、自分にとって相性はいいものなのか?

一旦自分のフィルターを通す。

そうじゃないと、やっぱり結果は出ないし、学ぶほどに頭でっかちな大人になってしまうんじゃないかなと思う。(もう、とっくにいい大人なんだけれど)

図工が嫌いになってしまった息子は、「こうしたい」という自分の気持ちを大切に、学校で学んだことをどう使っていくか練習するときなのだろう。

「イヤ」で止まらず、「こうしたい」という気持ちがどうしたら叶えられるのか一緒に考えていきたい。

そして、私も自分を活かす学びをつづけていく。

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